第12回 中編 本当に必要な情報を切れ目なく地方まで届けるために【畿央大学 健康科学部 理学療法学科 教授・森岡 周 先生】

──ありがとうございます。次の質問がそこに通じるところだと思いますが、現在の日本の理学療法で起こっている信念対立について、私は個人的に伝統芸能がお互いを非難しあっているように思います。真に有益なものに、標準化されるために、私たちはどうすればいいのでしょうか。

信念対立を0にすることは、私は難しいと考えています。高次脳をもった人間なので。

けれども、例えば内部障害系の理学療法をみてください。あまり信念対立が起こってないようにも思えます。内部障害というどちらかといえば後発の分野、例えば心臓・呼吸は、意思や意識・感情を交えないのでデータ化しやすいですし、プラセボはあまり関係なく、科学に則りやすいと思います。

徒手療法などを用いた運動器は誰が触るかによって変わることはありますし、神経も同様に徒手・ハンドリングはその傾向があります。

確かに、良くなることは紋切り型視野からみて事実だと思いますが、何によってよくなったか、ということが未だ明示できていないと思っています。

運動器は整形外科の後療法から発展しているのですが、科学的裏付けがその時代背景から推察するとなかなか難しく、けれども実践しなければならず、ある見方を定着させるために理論武装しなければならなかったのではないでしょうか。

その際、海外から、特に当時は先進国として認識されてきたヨーロッパで行われてきたものを取り入れてきたように思えます。

発散した視点を収束させるためには理論が必要だったのでしょう。


──今の話の流れから、真に有益な科学性を高めるためにはどうすればよいのでしょうか。

まず、前提として科学と科学性は違います

間違った認知、歪んだ認知があって、科学はデータだというように思いこんでしまう風潮があります。そして、データは「定量的数値で示されるものである」と言われたりしますが、私は間違っていると思っています。

科学というのは発見するための手続きがしっかりしている──つまり現象の発見の連続なので、「科学とは何か」となったときに、その時代に照らし合わせて、数的にどっちが偉いかを示しているものではありません

一方で、反証可能ではないものは科学にはなりえない、消化できません。この反証可能な思考をもって考えることが「科学性」という意識になっていくのではないかと思います


──ありがとうございます。私たち理学療法士は20年前の知識技術で勝負するのではなく、アップデートされていなかなければいけないと思います。

きっちりとしたものの考え方などを広めるために、これだけITが発達している社会の中で、私たちはどういった仕組の導入の検討をしていけばいいのでしょうか。

今後、情報が膨らんでいくと思いますが、システムとして考えれば神経システムと一緒で情報は発散し、収束されていくと思います。今は発散している途中で、カオスな状態ですが、いずれは使われない情報が刈り込まれて収束していくと楽観的に捉えています。

今の理学療法の世界は情報の動きがボトムアップ主体ですが、いずれはどこかで舵を取って情報をトップダウンに収束させていく必要があり、そこに対して(日本理学療法士)協会や分科学会は非常に大事なポジションにあると考えています

将来的には協会や学会が主導し、根拠ある情報を切れ目なく地方まで届けるシステムを構築する必要があると思います


──具体的にはどのようなシステムを構築する必要があるのでしょうか。

現在、学会や論文ではトピックに強い注目が集まります。そうではなく、もっと基本的なことを発信していく必要があると思います

臨床は経験則のみで未だに行われていることも多く、必須の勉強内容自体がある程度定着していません。基本的なこと、臨床に取り組む上で絶対に知らないといけない情報自体を一元化・収束して、それを教育していくシステムが必要だと思っています。

こうした知っておくべき基本的情報に関しては、フリーで学べるリカレント教育システムを分科学会主導で構築すべきだと思います


──素晴らしい考えだと思います。応援しております。私もまったくそう思います。

私は今後それを実現しようと思っています。

あとは、信念対立をどう解決するかも今後は課題になります。中堅クラスの理学療法士が信念対立を今後10年20年も続けるのか。

それを続ける限りは、発展はありませんし、「負の遺産」を後進に押し付けてしまい、それはまた繰り返されてしまうと思います。


──個人的な話になりますが最近60代になる大学教授の信念対立を立て続けに2度、耳にする機会がありました。この世代はまだこういった対立があり、変わらないと思ってしまいました。

残念ですが、なかなか変わらないです。結局は自信のなさの現れだと思います。研究者と臨床家が信念対立しているのも自信のなさの現れだと思っていて、私が尊敬しているノーベル賞の仕事にも関わる生理学者は、医師ですが、「僕はメスも持てないし、注射もできないんだよ」とご自身で仰っていました。それを言えるということは自信がある証拠だと思っています。

対立の意識を生み出すということは、その人自身ではなく、その理論<考え方><もの>に対しての批判だと思っています。これはある種戦わないといけない。なぜなら、それを続けてしまえばミスリードにつながってしまい、ひいては弱者を救えないからです。けれども、その個人に対する批判・否定はあり得ないと思っています。

その人は新しい情報をキャッチアップできていないからこそ、誤った信念をもってしまっただけにすぎないので。知らないなら教えてあげれば良いだけです。


──そうですね。

ただ、逆に60代の人たちを見ていくとある意味仕方なかったのかな、と思います。

歴史的に他流試合をする機会に恵まれなかったので、これからはやはり他のところへいって「自分の考え方が間違っていた」「浅はかだったな」という経験をどんどんすべきだったと思います

そういう経験をする場が学会だと思うのです。

「そういう考えもあったのか」「そうやっておけばよかった」と思ってワクワクするというか

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