第12回 後編 森岡先生が考えるリハビリテーションと教育【畿央大学 健康科学部 理学療法学科 教授・森岡 周 先生】

──最後となりますが、森岡先生が考えられる理学療法とリハビリテーションの関係性について、お伺いできますでしょうか。

人間は知性をもった生物だと言われます。その知性によって「人間らしさとは何か」みたいなことをいくつになっても意識したりします。

だから、「迷惑かけたらいけない」とか、「迷惑かけるくらいなら死んだほうがマシだ」といった意識を生み出したりする場合もあります。こういった意見が述べられるのは、人間らしい他者思いの素晴らしい知性だと思います。

人間は2つの自己意識をもっていると思います。

それは生物学的な<ヒト>と社会的な<人間>です。生物学的な<ヒト>は「今ここにある身体」から生まれる意識で、これが動くか動かないか、この身体を感じるか感じないという時制をもたない個別性がない<ヒト>です。

この生物学的な<ヒト>は普遍的なものを意味していることから、理学療法として「治療」を遂行する、すなわち、ガイドラインやエビデンスに準拠し、1割2割しか効果のないものよりも7割8割効果があるというものを選択すべきといった意思決定を生み出します。

ただ、もう一つの社会的な<人間>の意識には時制の意識が混入しています。

つまり、その個人の生きてきた経験に導かれた概念的意識が入ってしまっている自己です。その人の考え方とか、社会的な立場とか、人と比べて自分が優れているとか、劣っているとか、そのような意識を含んだ自己であり、個別性をもったものになります。


──非常にバイアスが入りやすいということでしょうか。


そうです。

バイアス、というよりも、そのバイアスがその人らしさなので

つまりそれがその人の精神、それこそ信念を表すものなのかもしれません


──なるほど。バイアス自体が個性なのですね。

そうですね。

精神性というか、……例えば体罰がOKだとかそうではないとか、そういう意識もそうなのかもしれないし、臨床実習にレポートが必要か必要ではないかということで対立している人たちもそうだと思います。


──ビジネスの世界ではよく言うのですが、事実と解釈を分けてものを考えようという関係性に近いものでしょうか。


そうです。解釈ですね、ここは。

だから、文脈があるわけです。だから考え方も変わって当然だし、だから同じ脳卒中の人であったとしても、本人にとっては文脈が違ってくるので、参加意欲がある人、ない人がでてくるわけです

この意識に対しては、普遍的なアプローチのみでは対応できないわけです。つまり、その人らしさを引き出し、それを付与してプラスの方向に転じていくことが重要です。

過去の経験だとか、あるいはこれからどうするかだとか、その人の役割や、だれと関係していて、それをどういう方向に導いていけばいいのか、そういったことへアプローチしていく必要があります。

これはまさに、身体的だけでなく、精神的・社会的にも自分らしく生きていけているという意識を引き出す必要があり、ゆえにリハビリテーションの理念はすごく重要なわけです

生物学的な<ヒト>に対する普遍的な理学療法と、社会的な<人間>に対する個別的なリハビリテーションの理念の両者からアプローチし、それらを互いに創発させることがまさしく理学療法士や作業療法士の仕事だと思っています


──その2つの概念がやりとりしながら創発が生まれてくるというイメージでしょうか。

そうですね。

例えば、すごくエビデンスのある理学療法を適用したら、ちょっと歩くスピードが早くなり、その後の個人の目標が明確になったという結果は<ヒト>に対して理学療法を実行し、それがその個人の精神や意識を変化させたことになります。いわゆるボトムアップ的効果です。

ただ、その人自体が自分の身体に対して歪んだ捉え方をしていたらどうでしょうか。

例えば、過去にいじめられた経験があったり、社会的に排斥を受けた人だとすると、その個別的な経験がトップダウンに身体意識を変容させてしまいます。

昨今、慢性疼痛はそのようなトップダウンな個別的な自己意識が影響しているといった多くの証拠があります。

そのような対象者を前にすれば、今度は普遍的な理学療法の提供だけでなく、テーラーメードなコミュニケーションや患者教育の技術が必要になります

いわゆるトップダウン的効果を視野にいれて介入するというわけです。ゆえに、PTOT教育においても、このようなコミュニケーションスキルを高めることを視野にいれた教育も必要になってくるわけです。

とてもじゃないけど、3年や4年では難しいですよね。

教育改革を忖度なく断行できる強い行動力とリーダーシップがいまこそ必要じゃないかと思っています