――まずは牧野先生のルーツをお聞かせ下さい。
先生、お生まれはどちらですか?
福井の永平寺です。だから自分にはもともと死生観があった気はしますね。
25歳の時にワーキングホリデーでオーストラリアに1年間行き、いろんな人との出会いがあって、現地のおじいさん、おばあさんの家に泊めてもらったりしたのですが、「もう2度と会えないんだろうな」と思ったりしていました。
先生は僕が臨床1年目のときに言語聴覚士元年なんですね。
言語聴覚士でした。平成元年から。福井の医療技術専門学校(現、福井医療短期大学)を出ています。最初に勤めたのは社会福祉法人びわこ学園という重症心身障害児の施設でした。
「この子らを世の光に」。
そうです。糸賀 一雄 さんの。そこの初代の言語聴覚士をしたんです。11月に登壇するセミナーの小児期(先天性)の摂食嚥下障害もそこで担当して、牧野の「お食い締め」の原点はびわこにあるんじゃないかなと周りから言われます。重心の子をみているとき、起こしただけで血圧がバンと下がりましたから。何ができるのかなあと思いまして。
変形が怖いから、寝かしておこうになる。起こすと重力で歪むから、起こさずに行こうというと、今度は循環がもうめちゃめちゃになるんですよね。負荷がかかるから、起き上がると貧血おこして。
はい。それで「先生、この子は死ねばいいって思いません?」ってお母さんからよく聞かれて、何も言えなかったんです。タイムカード押したら終わる僕たちと、24時間365日、子どものことで悩み続けて夢にまでみる母親との差というか。外来で来ていた方で自殺した人もいるんです。母親たちはもう己の死と対峙している。そして、どこかの時点で「この子が生まれてよかった」と言われるんです。その子が生まれたおかげ、またうちに生まれて来てね、と。内発的にそうなるんですね。
「障害受容理論」のフェーズですよね。
もう、障害じゃなくて宝物になっている。
――当事者の方から向けられる言葉は重いものがありますね。
僕も専門が「摂食嚥下呼吸」で、重症の子どもを診ることが多くて、ずっと迷いました。今はもう、どうして生きているんだということに対する答えは「当たりだろ、生きているんだから」というふうに見つかりましたけれども。
僕もずっと悩みました。生きるっていうことに対して薄っぺらい答えしか持たなくて、ただ黙っていただけですね。
ギリギリの質問をされるじゃないですか。僕は人生で3回、「おまえに俺の気持ちが分かるのか」と、患者さんや利用者さんから言われたことがあります。
はい。僕にとってそのお母さんの言葉も、まさしく神と対話しているような感じでした。僕たちの感覚、要は障害がない感覚で接すること自体が非常に薄っぺらな気がして、オーストラリアへ1年間行く動機になりました。でも日本に戻ったらもう仕事がなくて、札幌医療科学専門学校の講師になったんです。僕なんかが(笑)。
聖隷三方原病院と札幌の両方に受かり、臨床の聖隷三方原のほうが良かったんです。
学校の先生なんてとてもなれないと。
藤島先生の「口から食べる-嚥下障害Q&A」は僕のバイブルです。
そうですか、中央法規出版ですよね。一方の就職先を蹴った状態になって、それで小児の嚥下を診ていました。VF(嚥下造影検査)も平成元年からやっていて、成人のほうに切り替えていったんです。
札幌では自閉症の子を診ていて、言語聴覚士が法制化されて学科長として島根に移りました。浜田市の「リハビリテーションカレッジ島根」で学科長になり、2003年に広島へ行き、医療法人社団 聖仁会の立ち上げに加わりました。
昔の国立浜田ですけれども、言語聴覚士がいないと衰退するから誰か紹介してと院長が言って来られて、2003年ですからもう学生はそういう施設に行きたがらないので、まず私がシステムをつくって卒業生を送ろうと、軽い気持ちで半年だけ行ったんです。
学科長自らが赴任して。
はい。行ってみると、変わった先生だったんです。「おもちを食べさせない言語聴覚士は要りません」とか。人間にとって大事なことだから、食べることありきで考えられる言語聴覚士さんじゃないと要りません、と。餅を食べさせるなんて禁忌でしたから、ちょっと悔しかったんです。
すごい先生ですね。
そうなんです。NHKにもよく出たり、認知症ケアの第一人者になられる前の和田 行男さんが通っていて。「牧野先生は日本一素晴らしい言語聴覚士だ」と言ってくださるんですけど、本をもらったりしながら育てられた(笑)。
特養とか病院、グループホーム、老健のグループでしたから、デイサービスなどいろんなところへ行くんです。
――そこではどのように利用者さんと接されていたのでしょうか。
「1 日に1 人か2 人しか診なくていい」と言われました。高額をもらっていたのでたくさん診ようとしたら呼び出されて、「先生、いいから」って(笑)。
「そんなにたくさん診たらベンカツできんやろう。1人をじっくりでいいから、診てくれ」と言われて、グループホームで一緒に買い物に行ったり、看取り期の人と関わったり。先駆的なことをしていた施設でした。
そこで、東洋医学の先生と出会ったんです。天津から来られた中国人の先生で、講演を聴きに行ってびっくりしました。東洋医学には「未病」という予防的な段階と、治療の段階と、あと死んでいく段階があると言うんです。西洋医学には予防やリハビリ治療はあっても死んでいく段階というのはなく、要は「お手上げ」のイメージ。
ところが先生が言うには、「死んでいく段階ですることは生き返らせることではない。死なないとだめでしょ?」。
人間はだれしも死ぬのだから、少しでも痛くなく、少しでも楽にして、できれば少しでも長く生きて、と話されて、すごくびっくりしたんです。
「死んでいく段階」に気づかれた。
言語聴覚士の中ではだいぶ先頭をきったと思いますが、われわれの仕事でも、予防期、リハビリテーション期、看取り期という3つの立場があるんじゃないかと思いました。炭火でいうと着火剤でつけて燃やす時期と、消えないように維持する時期、あとはもう消すことはしなくても、すうーっと消えていくのを見守る段階があってもいいんじゃないかなと。
それでトライフォースということで中央法規出版で本を書かせてもらいました。あくまでも言語聴覚士としての追求だったので、「お食い締め」という概念を考えました。予防期の段階で食べられている人が、サルコペニア(加齢性筋肉減弱現象)という前から、体の機能が落ちてから口が落ちるという、機能低下に関してそう思ったものですから、なるべく疾患にならない予防と、体の機能をちゃんとみて、特にバランス機能だとか、腹筋背筋だとか、そのあたりを生活の中でちゃんと見極めて、例えば背もたれも全部取ってしまうとか、そういうふうに維持させないと、来るよと。
食べることと機能低下とがつながっていると。
機能低下によってムセが起こることがあります。全身の姿勢運動機能低下に続き、食べる機能が低下するのが分かって、それが予防機能。要は全身をみるということで、今、僕が講演しているのはサルコペニアとかフレイルティ(虚弱)の段階で、まず押そうというのが食べる障害の予防期ですよね。次が従来のリハビリテーションで、これは野原先生たちが言っている「キュアとケア」です。ちゃんと見極めながら進めて、そして、この終わっていく段階ですよね。
(次回へ続く)
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