第11回 前編:患者さんと深く知りあい、関わりあい、最期まで手をつなぎ続ける人になりたい。嚥下と看取りの道への一歩【みえ呼吸嚥下リハビリクリニック 院長・医師 井上 登太 先生】

――井上先生が医師を目指したきっかけ、エピソードを教えてください。

私は熊野の田舎出身で、仏教系の中高一貫の進学校に下宿して通っていたのですよね。

けれども、退学勧告をされたり特別個人補講をしてもらったりするほど、頭も要領も悪い、とんでもない落ちこぼれ学生でした。

なんと。今の井上先生からは想像もつきませんね。そうした学生時代を送る中で、どうして医師になることを志されたのでしょうか。

当時は漠然と「人に求められる仕事に就きたい」と思っていましたね。

その頃、心筋梗塞を起こした祖父が搬送された先の病院で挿管拘束されて、唸りながら何かを訴えている姿を目にしたのですが、ICUだったので傍らに寄り添うこともできないまま亡くなりました。その後の火葬場で、薬品の影響によるものか様々な色がついた骨を見ていると、心にこみあげてくるものがありました。

おじいさまの看取りを契機に、進路を定められたのですね。

田舎の医師になりたいと思い立ち、何とか医学部に滑り込むことができました。入学してからも、学生の身で短い結婚生活を送り、バイトに明け暮れ、周囲の方にたくさん迷惑をかけたことと思います。

――ご担当されている分野の中でも、特に呼吸器・循環器のケア・リハや、終末期の緩和ケア・看取り・リハに着目した理由、エピソードを教えてください。

大学卒業後に受けた検診で、肺腫瘍が見つかったのです。

井上先生ご自身のお体にですか?

はい。大きく胸水を伴い浸潤しており、悪性の可能性が高いと告知されました。こんな結末は自分らしいなと思いながらも、誰にも言えずにいたのを覚えています。

幸い、良性との最終診断を受けて、地元で研修医として勤め始めた折に、高橋 猛 先生(理学療法士)と出会いました。そこで、呼吸リハビリテーション啓発のために全国を回っていらした千住 秀明 先生(理学療法士)のお話を伺い、呼吸器の道に入ってゆきました。

その後、僻地の病院にて、意識のない経鼻栄養の患者さんを大勢受け持つことになりました。この方たちに何かできることはないのかと悩む中で、摂食嚥下に興味を持ち、「私の知識・技術のなさが、この方たちを苦しめているのではないか」と考えるようになりました。

しかし、多職種、地域住民・社会の協力、施設間、地域連携を行うことで、「私でも戦い続けられるのではないか」とも思い、これが現在のNPO活動へとつながっています。

NPOグリーンタウングループで行われている、呼吸や誤嚥性肺炎へのケアについての教育・啓発活動などですね。

そうです。まだ介護保険などない時代に、田舎の病院で勤務していたのですが、ある高齢男性が「自宅で死にたい」と希望されました。同じ地区にお住まいの患者さんに相談したところ、なんと元・医療福祉職の中高年の方々やご近所の皆さんが集まってきて、自宅で看護・介護をしてくれたのです。死亡宣告のためご自宅へ伺うと、その地区の方が総出で並んでいました。

ただ同じ地区にお住まいというだけで、ご近所の方々が自主的にそこまで協力してくださったのですか。助け合いの風土が残る、理想的な地域ですね。

はい。しかし、誰もがそんな地域に暮らしているわけではありません。そういった文化のあった地域も、人口の減少に伴い今は崩壊してしまっています。けれど、その真似事だけでもできないかと思ったのです。

患者さんの置かれている家庭環境や、人生経験、性格も十分知らないのに、指導や告知をすること。重症化して通院困難となり、自分の手から離れていき、風の便りに亡くなったのを聞くこと。臨床では様々な現実に直面しますが、もっと関わりあい、知りあい、そして必要な時には最期まで手をつなぎ続ける人になりたい。その思いが現在のクリニック、施設運営、終末期への関わり方に続いていますね。

臨床で経験された感動や苦悩が、そのまま現在の先生のスタンスや理想につながっているのですね。

それから、自分自身が体験したことも活きています。研修中の通勤時に交通事故を起こしたことがあるのですが、寝たきり状態と療養を経て、4級障害を持つ体となりました。その後、持病の経過から誤嚥性肺炎、車いす生活をしています。

(次回に続く)


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