――前回「お食い締め」のいきさつを伺いましたが、先生が言語聴覚士を目指されたそもそものきっかけは何ですか?
偶然です。勘違いで(笑)。
先生の世代ですと、言語聴覚士は日本では300人いないですよね。
僕が500人目です。当時は資格もありませんでしたから、言語聴覚士と言えるか分からない人も含めて、認定試験をとったのが500人目。
僕は理学療法士で2万百何人目です。どうして言語聴覚士の学校に行くことになったんですか。
2つ理由があって、1つは好きな子がいて、高校のときにつき合っていた子が上越教育大学に行って先生になると。つり合いがとれないから僕も進学しないとあかんと思いました。もう1つの理由は、高校への通学路の途中に盲学校があって、すごいべっぴんさんがいまして(笑)。
(笑)はい。
上越教育大学へ行く子はどうしたの、という話ですが(笑)、まあ、すごいべっぴんさん。
その子が毎日、夕方に校舎の外で泣いているんです。どう声かけていいものか分からないところから何かつながって、「盲学校の先生になれんやろか」と高校の先生に相談し、紹介されたのが福井の学校でした。理学療法士、作業療法士と、資格がまだ安定していなかった頃で、僕は脳性麻痺のほうに進みましたが、2年生になってから各論に入っていき、そのとき初めて気づいたんです。高校の先生が盲と聾とを勘違いしたって(笑)。
そんなこと親に言えないし、成績が悪ければお前が悪いと言われる時代でしたから。必死になっているうちに、まあ面白くなったんですよね。
そうだったんですね、面白い(笑)
だから人生って、分かりませんよね。マズローの言葉ですけど、人生って振り返るほど偶然の連続で、自分が選んでいるように見えて、実は何か得体の知れないものが運命をもう計画してあった、必死になって生きているけど次々と起こる不幸でさえも、振り返れば全部が意味あるものとして紡がれていく……ということを言っています。自己実現欲求の上の自己超越、「トランスパーソナル」といって、人は不幸から生まれる、味わいが出るという、そういうのに気づいたんですよね。挫折が人をつくる。
挫折って、人生の中で必要ですよね。挫折、失敗、そのときは本当に腹がたって、悔しくてしょうがないんですけど、振り返ってみると、挫折や失敗があったから、自分がある程度大きくなれたっていう。
挫折や失敗も、あまりにも大きなものなら、それも意味。
――先生は、河合 隼雄さんなどはお好きでしょうか。
ああ、大好きです。河合 隼雄さんには、もう魅せられて。
僕も、河合先生のアニマ・アニムスのお話とかを、ずうっと聞いているんですよ。元気になるというか、こんな自分でもいいのかなって。
はい。僕はユング心理学にすごくはまったんですね。河合 隼雄さんにも。講演でお話ししたペルソナとゼーレもユング心理学です。ユングは晩年、仏教にはまったんです。要は「お陰様」の言葉に感化されて、人は陰からつくられている、宝物が入っている陰に恐れずに飛び込めと。
ちょっとユングの話が長くなりましたが、結局マズローが最後に言ったのは、陰さえもみんな計画的に、病気も死ぬことも神様がちゃんと与えてくれているという。だから小林 麻央さんが亡くなるまでの手記などは興味を持って読みます。神様と対話していますものね。彼女に与えらえた神からの賜りもの。
僕は在宅が長くて、自分に信仰があったらもっと楽だったのにと思うんです。キリスト教なり仏教なり、あなたが頑張らないと神様が悲しみますとか、そう言えたらと思っていました。でも信仰を持っていず、若いときに2週間でお坊さんになれるという講座を受けてみようかと思ったんですけど、なんとなく危険な感じでやめました。
2週間というところがあやしい(笑)。
あやしいですよね(笑)。それで、信仰とは別に哲学の分野で、僕が好きなのはヴィクトール・フランクルなんです。『夜と霧』を書いた実存的精神主義の人で。
先生のフェイスブックに書かれていて、深いですものね。私はユダヤ教とかキリスト教とか、まあ、軽くですよ。キリスト教は三浦綾子を読むくらい、聖書やイスラムを読んだり。だからまあ、そういう下地が「お食い締め」とつながっているのかなと思います。先ほど申し上げた東洋医学の死んでいくのは当たり前、という。皺も老いていくのも当たり前だと。僕らもだいぶ皺が出きてきたから言いますけど。
先生、おいくつですか。
49.6歳くらい。(笑)
僕は今年42歳になりました。
もうオーラが出てますね(笑)。凄腕です。会社を大きくされて。
自分に腹立たしいことばかりですけど、まあそれでもなんとか。いろんな出会いがあったから。僕らの仕事は、やっぱり哲学がないとどうしようもないと思うんですけど、哲学がありながら会社が立ち行かないとよくないので、ずっとそこのバランスです。ただ充実しております。ありがたい話です。
いろんな責任があるんですね。僕、自分の講演が大勢に来てもらえて、他と何か違うのかなと今日も考えていて、あることに気づきました。単純に言うと、スタッフベースでものをみるか、利用者ベースでものをみるかの差だと思います。
世の中のほとんどは、スタッフベースでみる人なんですよね。認知症の見方もそうです。先ほど話したの施設は、以前は利用者さんベースからものをみることで徹底していました。例えばグループホームで、ばあちゃんが「家へ帰るんやあー」と、四つん這いになって這い出ようとしたときに、夜中でスタッフが2人しかいないから「何やってるの、もう」というふうに、子ども相手のように説き伏せるんです。
だけど、そうやって夜中に出ようとするのには必ず意味がある。どうしても帰りたいというなら、家に帰れない悲しい現実があっても、まずは車椅子でもなんでもいいから「じゃあ、いっぺん出てみよう、外」と対応するんです。
(了)
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