第2回 中編:「お食い締め」とは何か?ご家族が死を受容する過程に見た思いの変化【愛知学院大学 心身科学部 健康科学科・言語聴覚士 牧野 日和 先生編】

――死を受け入れる段階を、「家族のためにある」と考えられたと。

医療法人社団 聖仁会にいたときにお餅を食べさせるとかをやりながら、批判を受けることはあっても、看取り期の支援によって家族の言葉が全然違うなあと思いまして。看取り期での経験のほうが僕は魂が震えたし、お葬式のときに結果が出ると思ったんですね。

それで、本人が望んで家族が望むなら、無茶しない範囲でやろうと思ったのが、最後の食支援「お食い締め」だったんです。

お食い締め、ああ、なるほど。

「お食い初め」で「お食い締め」でしょ、と。僕も心理学の勉強をして、ライフサイクル論というのがすごく響いていて感動したんですけど、まさかお食い初めとお食い締めが2つ繋がるとは思わなかった。ライフサイクルの理論を推し進めている人で、京都大学名誉教授の、やまだ ようこ さんという世界的に有名な方がいますが、彼女の手記で驚いたのがあるんです。

どんな手記なんですか。

「今、自分の目の前で母親が死のうとしている。くしくも自分の誕生日だ。何で誕生日に母親が死ぬんだろうと思って横にいる。呼吸が絶え絶えになって、もうすぐ死ぬんやなあ。そのとき初めて気づいたことがある。母親が死ぬってなったから初めて気づいたことがある。それは、誕生日は自分の日じゃなくて、母親が自分を産んで夢を持った日なんや。なんでそんなことに気づかなかったんやろ。それは母親が死ぬってことを教えてもらったんや。という、命の学び。だから、死から自分は学ぶんや。学んだんや」。

ということが書いてあって、感動したんですよね。

なるほど。

あと、講演の中で話すんですけれども、嚥下障害があって、もう自分は死のうと思っていた患者が、娘のために頑張って食べて、常食まであがったことがありました。看取りじゃなくてリハビリテーション期なんですけれど、胃ろうしていながら戻った患者がいたんです。娘が僕のところに「食べさせてくれ」と言いに来て、その話を中央法規出版の本に書いたら母親に呼び出されました。娘がいないところで先生と話をしたいと。

ちょっと元気になってから。

はい。「実は私は、もう食べたくないんだ」と言われて。じゃあ、なんで食べたんですかと聞いたら、娘が不良で、くり返し暴力を振るわれたので勘当したのだけれど、およそ何十年ぶりかに娘がやって来て、自分とあいさつもせずにドクターに「食べさせたい」と言ったと。「先生、私はこの後死ぬじゃろ」と、広島弁でね。「どのみち死ぬ」「今死んでもいいんや」「そやけど、1つやり残したことができたんや」と。

「それは、あの娘が、最後の最後に母親のために食べるよう自分が立ち回ったという、そういうふうにしてあげれば、私が死んだあとも娘が生きていけるじゃろう? 私はほんまにもう食べたくない。そやけど、あの娘のために、母親の最後の大仕事してるんじゃよ。内緒な」と言ったんですよね。


――感銘を受けると同時に、ご家族間の関わり方に違和感を覚えたという感じでしょうか。

前々から命と対話していないから、その段階に来てこのようなことになるんですよね。僕らに怒鳴ってきたり。そして最後に収まって、こう、折り合いをつけていきますよね。

はい、なんとか折り合いをつけていきますね。

ちょっと話が膨らみますけど、生物学的には赤ちゃんが産めなくなったら、生物はみんな死んでいくんですね。

はい。

だけど、人間と象はそのあと何十年も生きていくんです。何のためかというのは分かっていないんですが、人間は年をとればとるほど、若い子どもたちや娘、孫たちを生かすために、自分が生きてきた、自分が死んでいくという、知恵袋としてあるんだろうと。認知症になろうがALS(筋萎縮性側索硬化症)になろうが、死んでいく姿を子どもが間近に見る。

僕の父親も死んだんですけれど、そのあと僕はずーっと命と対話をしますよね。自分の身内が死ぬとはそういうもんだろうなというふうに気づいてですね、「お食い締め」が最初と最後の最後ではなくて、本当の意味は家族や周囲の人が気持ちの折り合いをつけるというところにある。要はパーティーが盛り上がっている時に、宴もたけなわですけど、とまあ日本は一本締めで「よおーっ、ぽん」ってすると、まだ早いよ、と言っていた人も、お疲れ様でしたと帰っていくわけで。

人の死も、逝く人も見送る人も同じかなあ、と思って。そういう最後の舞台で、食支援じゃなくてもいいんですけど、僕らがその場の最後の締めをしてあげる。希望すればですけれども、その場をもつことによって、亡くなったあとの葬式のときの家族の顔が違うなあというのに気づいて。

ご家族の顔がまったく違うと。

はい。それで「お食い締め」の「締め」は、むしろ本当の意味は一本締めという、家族の次につながるライフサイクル論を前面に出している。だからもう、僕の「お食い締め」というのは、セラピストとしての発想ではなくて心理学ですね。5000年前も5000年後も変わらないものをつくりたい、それってなんやろと思ったんです。

こういう最後に食べさせるテクニックはうつろうわけで、人が死んだのをみて次の世代がそこから命を学び、自分も死んでいくときに自分の後輩・後進に、影響を与えて死んでいくという。そういうので「お食い締め」というのをやる。そんな僕の考えを深めてくれたのは、多くの亡くなられた患者さんです。

いろんな人がいました、シャツを破られたこともありますし。

よく分かります(笑)。

たぶん、「生きることは食べること」という、生きるために食べるという西洋医学の域から抜けきらない先生も多いかなと思って。

(次回へ続く)


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