本日(2017年8月17日)の中日新聞の一面に、戦中における傷病兵のリハビリテーションに関する記事が掲載されましたのでご紹介いたします。
また、本記事掲載にあたり、画像引用をご快諾くださいました秩父宮記念スポーツ博物館・図書館様および公益財団法人 日本体育協会様に感謝申し上げます。
一九三九(昭和十四)年に日中戦争の傷病兵が競った国内初とみられる障害者スポーツ大会のパンフレットが、秩父宮記念スポーツ博物館・図書館(東京都足立区に仮移転中)で見つかった。
旧日本軍がいち早く運動をリハビリテーションに取り入れていたことを示し、専門家は「大量の傷病兵の処遇を怠ると戦争継続に影響しかねないとの危機感があったのでは」と指摘。大会は「傷兵慰問体育運動大会」で、パンフは今年六月、博物館の資料整理で見つかった。
(本文引用:中日新聞)
(画像引用:秩父宮記念スポーツ博物館)
これによると、日中戦争開始約一年八カ月後の三九年三月十九日、東京都新宿区の陸軍戸山学校運動場で開かれた。大日本体育協会が主催し、手や足を切断した傷病兵ら約二百四十人が出場。自転車、バスケットボール、サッカーなど八競技で競った。
健常者のアスリート約四百人も陸上、サッカーなどで模範競技を披露。ベルリン五輪(三六年)の陸上五千メートルに出場し「人間機関車」の異名を取った故村社(むらこそ)講平選手らが参加した。
(運動大会の様子。自転車をこぐ傷病兵は義足であることが分かる=1939年発行の大日本体育協会の機関誌「体育日本」から 画像引用:公益財団法人 日本体育協会)
パンフには協会会長の下村宏・貴族院議員が文章を寄せ、日中戦争を「有史以来の重大時局」と位置付けた上、大会目的について「(傷病兵への)慰問の誠意を体育運動競技によりて披歴するは当然すぎた企てである」と記した。
リハビリテーションにスポーツを取り入れる試みは、第二次世界大戦末期の四四年、英国のストーク・マンデビル病院で本格化し、パラリンピックの源流となった。
国内の障害者スポーツは、東京パラリンピック前年の六三年ごろに始まったとされてきた。
日本福祉大スポーツ科学部の藤田紀昭(もとあき)教授(障害者スポーツ論)は「戦時中に運動を利用したリハビリを行った事実は知られておらず、障害者スポーツの歴史を示す資料。スポーツが戦争に巻き込まれた一つの形といえる」。
京都大文学部の高嶋航准教授(東洋史)は「軍は士気を保つ狙いから、傷病兵への処遇を重要視した。処遇を怠ると周囲の兵隊や家族にも波及し、徴兵制の根幹や兵力動員に支障をきたすことを恐れたのだろう」と話す。
◆太平洋戦争 配慮の余裕消え
パンフレット発見を機に、運動大会を主催した大日本体育協会の後身の公益財団法人日本体育協会(東京都渋谷区)に本紙が調査への協力を依頼したところ、資料室に保管していた協会機関誌にも、傷病兵の運動やリハビリテーションに関する記述が確認できた。
運動大会前年の三八年発行の一冊の中で、陸軍の軍医が「傷者に最適の運動が要求される」「(スポーツが)自己の身体に自信を付けさせる精神的効果は極めて甚大」などと強調していた。
運動大会の模様は直後の三九年四月、五月の機関誌にも掲載。傷病兵のリハビリテーションの実態について「陸軍病院で義手義足を用いて武道や各種運動競技が励行されている」と触れた。しかし、運動大会は四一年六月の第二回で途切れた。高嶋准教授は「(同年十二月の)太平洋戦争突入後、新聞からも傷病兵の記事が消えていった。軍に傷病兵に配慮する余裕がなくなり、社会にアピールする必要もなくなったのだろう」と推測する。
以上、いかがでしたでしょうか。
これまで国内の障害者スポーツは東京パラリンピックの前年がはじまりとされてきましたが、この度、その常識を覆す発見がありました。
これをきっかけに、東京パラリンピック以前の障害者スポーツやリハビリテーションの歴史が見直されるかもしれませんね。関連分野を研究されている方にとっては興味深い情報となりそうです。
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